久米地区紹介
地理
久米地区は桑名市の南西端、員弁川の右岸に位置し、
西は員弁郡東員町、南 は四日市に隣接しています。
歴史
久米村は、明治22年(1889)町村制の施行により
坂井村、友村、赤尾村、島田村、志知村、中上村合併して
発足しました。
この辺りは、古代に大和(奈良県)の久米から移住して
きた人々によって開発され、久米郷と呼ばれていたことから
久米村と命名されました。
昭和30年(1955)2月1日、村の一部(坂井、赤尾、
友村、島田、志知)が桑名市と合併、残部 (中上)が
東員村(現 東員町)と合併し、同日に久米村は
廃止されました。
桑名市になった久米村
- 久米村は昭和三十年(1955年)二月一日、桑名市と合併しました。久米村は七和村と同様に員弁郡に属しており、郡境を越えての合併でした。江戸時代にあった坂井村、赤尾村、友村、島田村、志知村、中上村が明治二十二年(1889年)に合併して久米村ができました。この地区は古代に大和(奈良県)の久米から移住してきた人びとによって開発され、久米郷と呼ばれていましたので、久米村と命名されました。昭和二十三年に町村合併促進法が施行されて、三重県庁では大長村、稲部村、神田村と合併するようにと計画しました。しかし、村民の世論調査では桑名市への合併を希望するものが過半数を占め、村議会も九対五をもって桑名市への合併を決議しました。これに対して中上地区は東員村(現東員町)への合併を希望したため、合併問題は一時紛糾し、ついに中上地区は東員村と合併し、その他の地区は桑名市と合併しました。
- 古代遺跡として、志知にある平群神社付近一帯は古墳時代の祭祀(し)遺跡であり、背後にある山が御神体として祭られていました。ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)が立ち寄ったといわれる伝説もあります。また志知の水田には奈良時代から鎌倉時代の遺物も多く見られ、部分的に発掘されましたが、全体像ははっきりしていません。付には十王堂、天王堂、鎮守堂という小字名もあり、大きな寺があったとも伝えられています。景清という豪族が住んでいたと伝えられる景清屋敷跡もあり、近くの蓮敬寺の山号は景清山と称しています。
- 坂井、友村、島田にも鎌倉時代の遺物が見られます。室町時代末期には、志知、島田の丘陵地に城がありました。文献では坂井、友村、赤尾にも地侍が住んでいたとされています。江戸時代には最初桑名藩領でしたが、文政六年(1823年)に忍(おし)藩(現在の埼玉県行田市)領となり、一時幕府領となり、また忍藩領に戻り、明治時代はじめは忍県に属しました。久米村(中上地区を含む)は大正九年(1920年)の第一回国勢調査では、総人口二千二人、職業人口千二百十二人のうち農業が千三十三人で、農業が主体でした。工業としてはそうめん、うどん、清酒などの食品工業がありました。昭和十五年には総人口二千百十七人、昭和二十五年には二千七百二十一人(いずれも国勢調査)となっています。なお、桑名市と合併後も、中学生はしばらく東員中学校に通っていました。
- (元桑名市文化財保護審議会委員・西羽 晃)
